この疾患の要点
ワイプアウト/スナッフアウト現象は緑内障 手術後の稀だが重篤な合併症である。
術後早期に起こる特発性かつ不可逆的な視力 喪失が特徴である。
発生率は過去の報告で0.75〜13.6%と幅があり、近年はさらに低頻度が示唆されている。
末期緑内障 ・重度視野欠損 ・高齢・全身疾患がリスク因子として挙げられる。
予防が最も重要であり、段階的眼圧 下降と周術期管理が鍵となる。
視力 喪失は一般に不可逆的であり、予後は不良である。
ワイプアウト(wipe-out)またはスナッフアウト(snuff-out)現象とは、緑内障 手術後に起こる稀ではあるが重篤な合併症である。術後早期に発生する特発性かつ不可逆的な視力 喪失を特徴とする。
主に線維柱帯切除術 (トラベクレクトミー )と関連して報告されるが、白内障 手術後にも症例報告がある。発生率は過去の研究で0.75〜13.6%と幅があり、近年のエビデンスではさらに低頻度であることが示唆されている。
末期緑内障 の転帰を前向きに評価した研究では、手術後の視力 予後に関する重要な知見が得られている。それ以前の報告の多くは後ろ向き解析にとどまっており、発生率のばらつきはこの研究デザインの違いによる部分も大きい。
なお、この現象の存在そのものが長らく議論の対象となってきた疾患概念であり、明確なコンセンサスには至っていない。
Q
ワイプアウト現象はどのくらいの頻度で起こるのか?
A
過去の報告では0.75〜13.6%と幅広い数値が示されているが、近年の前向き研究ではさらに低頻度であることが示唆されている。発生率のばらつきは、研究デザインや対象患者の重症度の違いを反映している。
急激な中心視力 低下 :手術直後(多くは術後1〜2日以内)に中心視力 の著しい低下を自覚する。
視野の急激な喪失 :残存していた中心視野が短期間で消失する。
眼痛 ・充血 の欠如 :眼痛 や充血 を伴わないのが特徴的であり、他の術後合併症との鑑別ポイントとなる。
重篤例では指数弁以下まで低下 :視力 が指数弁(数を数えられる程度)以下、あるいは光覚弁レベルまで低下することがある。
著しい眼圧 低下 :多くの場合2 mmHg以下の低眼圧 を示す。
中心視野の喪失 :術前から残存していた中心視野が失われる。
低眼圧黄斑症 の所見 :著しい低眼圧 (眼圧 4 mmHg以下)では、黄斑 皺襞・網膜 静脈の拡張蛇行・視神経乳頭 浮腫が認められる。
脈絡膜 ひだ :乳頭を中心に放射状・同心円状にみられることがある。
脈絡膜 剥離 :脈絡膜 滲出を伴う剥離を認めることがある。
ワイプアウト現象の正確な病因は現時点では不明である。複数の潜在的メカニズムが提案されている。
特定された原因因子として以下が挙げられる。
重度の低眼圧 :術後の急激かつ過度な眼圧 低下が視神経 ・網膜 への血流障害を引き起こす。
脈絡膜上腔出血 :術中・術後に脈絡膜 深層血管が破綻して生じる出血。
白内障 形成 :術後の水晶体 混濁による視力 低下。
嚢胞状黄斑浮腫 :黄斑部 の浮腫による視力 障害。
球後麻酔 による視神経 外傷 :局所麻酔薬の注入に伴う直接的損傷。
重度のぶどう膜炎 :術後炎症の遷延。
黄斑部 固視の分割 :末期緑内障 における固視点の不安定性。
術前から高度に狭窄した視野(末期緑内障 )を有することが最大の素因とされている。
主なリスク因子を以下に示す。
分類 リスク因子 内容 全般 高齢・全身疾患 心血管疾患、糖尿病 術前 末期緑内障 MD < −20 dB、固視分割 術後 重度低眼圧 IOP ≤ 2 mmHg、脈絡膜 剥離
脈絡膜上腔出血 のリスク因子には近視 ・緑内障 ・糖尿病・動脈硬化性血管疾患・高血圧・術中低眼圧 の遷延が含まれる1) 。
駆逐性出血 の危険因子は高齢・緑内障 ・強度近視 ・無水晶体 眼・動脈硬化性心血管疾患であり、白内障 手術での発症頻度は約0.04〜0.1%である。
Q
末期緑内障であれば手術は避けたほうがよいのか?
ワイプアウト現象は臨床診断である。末期緑内障 のリスク因子を伴う緑内障 手術直後に発症した視力 喪失として診断される。
以下の疾患を除外することが重要である。
鑑別疾患 鑑別ポイント 低眼圧黄斑症 眼圧 4 mmHg以下脈絡膜 剥離/出血超音波でドーム状隆起 黄斑浮腫 OCT で黄斑 肥厚網膜剥離 眼底・超音波 視神経症 視野・OCT
主な検査法を以下に示す。
眼圧測定 ・視力検査 :低眼圧 の確認と視力 低下の定量化。
細隙灯顕微鏡検査 ・隅角検査 :前眼部所見の評価。
散瞳 下眼底検査 :視神経乳頭陥凹 比(C/D比 )の評価。
SAP (ハンフリー10-2) :中心視野欠損 ・固視分割の特定。
OCT :黄斑 菲薄化・浮腫・視神経 線維層の評価。
超音波検査(Bモード) :脈絡膜 出血のドーム状隆起の評価。
UBM ・前眼部OCT :毛様体解離 ・剥離の観察。
蛍光眼底造影 :低眼圧黄斑症 の評価。網膜 循環遅延・皺襞部の線状低蛍光・視神経乳頭 からの蛍光漏出を確認する。
ワイプアウト現象に対しては予防が最も重要な対策である。以下の方針が推奨される。
慎重な患者選択と細心の外科的手技 :末期緑内障 患者に対しては特に注意を要する。
段階的眼圧 下降 :急激な灌流変化を避けるために、術前から段階的に眼圧 を下降させる。
抗線維化剤(MMC等)の補助療法使用 :適切に使用することで術後眼圧 コントロールの安定化を図る。
周術期管理による過度の低眼圧 回避 :術後早期の眼圧 管理を徹底する。
術後の眼圧 安定化と眼灌流改善が焦点となる。
PGA(プロスタグランジン関連薬 )・β遮断薬 ・CAI(炭酸脱水酵素阻害薬 ) :過度な眼圧 低下を生じさせない範囲で慎重に使用する。
全身性CAI :眼圧 上昇時に使用する。
ステロイド :術後炎症の抑制と灌流改善を目的として使用する。
ペントキシフィリン :視神経 への血流改善を目的として用いられる場合がある。
NPDS
非穿孔性深層強膜切除術 (NPDS ) :穿孔を行わないため急激な眼圧 低下を回避しやすく、ワイプアウトリスクを最小限に抑えつつ眼圧 低下を実現する術式である。
適応 :末期緑内障 など穿孔性手術でのリスクが高い症例に特に有用。
マイトマイシンC併用TLE
マイトマイシンC併用線維柱帯切除術 :マイトマイシンC(MMC)を補助的に使用した線維柱帯切除術 。
エビデンス :前向き解析においてワイプアウト現象の証拠は認められなかったとの報告がある。適切な縫合管理と術後眼圧 管理が重要。
前房 消失時 :直ちに粘弾性物質 を注入して前房 を形成する。
低眼圧黄斑症 合併時 :ブレブ内自己血注射、または強膜 弁の経結膜 的再縫合(10-0ナイロン丸針)を行う5) 6) 。
圧迫眼帯 :保存的治療として有効な場合がある。
毛様体解離 時 :レーザー光凝固 (照射径100〜200 μm、照射時間0.2秒程度)を施行する。
抗線維化剤は低眼圧 ・低眼圧黄斑症 ・晩期性濾胞リーク・晩期性感染のリスク増加を伴う2) 。レーザー縫合切断やリリーサブルスーチャー除去により、術後早期の房水 流出を調整することが可能である2) 。経結膜 的ニードリング(5-FU/マイトマイシンC併用)は不全濾過胞の再活性化に有効とされる2) 。
術中に駆逐性出血 が発生した場合はまずすべての創口を閉鎖する。予防には術中の血圧管理と鎮静が有効である。
術後1か月間 :毎週の診察を行う。
術後6か月間 :毎月のフォローアップを継続する。
定期的な視野検査 とOCT :視機能変化の早期検出のために定期実施する。
治療における注意点
ワイプアウトによる視力 喪失は一般に不可逆的である。一度生じると回復は見込みにくく、予防こそが最重要の対策である。
抗線維化剤の使用は過度な低眼圧 ・感染・晩期リークのリスクを伴う。術後の頻繁な眼圧 チェックが必要である。
術後の過度な低眼圧 が持続する場合は速やかに対処する。
Q
ワイプアウト現象が起こった場合、視力は回復するのか?
A
視力 喪失は一般に不可逆的であり、回復を見込める治療法は現時点では確立されていない。そのため、予防的管理が最も重要である。段階的眼圧 下降・慎重な患者選択・適切な術後管理により発症リスクを低減することが求められる。
Q
なぜ末期緑内障患者は手術後に視力喪失を起こしやすいのか?
A
末期緑内障 では長期の眼圧 上昇により視神経 の構造的脆弱性が高まっている。加えて血流自動調節能の障害により眼圧 変動への感受性が増大しており、術後の急激な眼圧 低下が視神経乳頭 ・網膜 の虚血を招きやすいと考えられている。詳細な発症機序は「病態生理学」の項 を参照。
末期緑内障 では、長期にわたる眼圧 上昇と網膜神経節細胞 の進行性喪失により視神経 が著しく障害されている。このような視神経 は眼灌流・圧力動態の変化に対して特に脆弱であるとされる。組織病理学的研究の蓄積は不十分であり、病理学的基盤は未だ十分に定義されていない。
機械的因子
篩状板 の変形 :急激な眼圧 低下により篩状板 が機械的に変形し、軸索損傷を引き起こす。
視神経 の構造的脆弱性 :末期緑内障 では篩状板 の構造が既に脆弱化しており、わずかな圧力変化にも過剰に反応する。
血管的因子
灌流圧低下 :低眼圧 により眼灌流圧が低下し、視神経乳頭 ・網膜 の虚血が生じる。
血流自動調節能の障害 :眼圧 変動への過剰反応が微小循環の崩壊を招く。突然の術中低眼圧 が視神経 出血や微小塞栓エピソードを引き起こす可能性がある。
炎症・出血因子
術後炎症 :炎症性サイトカインが血管障害を悪化させ、視神経 への直接損傷を増強する。
脈絡膜上腔出血 :脈絡膜 深層血管の破綻により生じる。術中・術後の低眼圧 が主な原因であり、後毛様動脈の破綻による駆逐性出血 が最重症型となる。
著しい低眼圧 (眼圧 4 mmHg以下)では眼球後部が前方にたわみ、黄斑 皺襞が形成される。低眼圧 が長期にわたると皺襞が固定化し、恒久的な視機能障害へと至る。眼圧 4 mmHg以下では高度の視力 低下(0.2以下)を生じることが多い。
線維柱帯切除術 の転帰を検討したメタアナリシスでは、浅前房 13.6%・低眼圧 11.7%・脈絡膜 滲出8.3%・眼内炎 1.7%の頻度が報告された3) 。これらの合併症がワイプアウト現象の発生基盤となりうる。
NPDS はワイプアウトリスクを最小限に抑えつつ眼圧 を大幅に低下させることが報告されている。穿孔を伴わないため急激な眼圧 変動が回避でき、末期緑内障 患者における安全性への期待が高まっている。
マイトマイシンC併用線維柱帯切除術 に関する前向き解析では、手術後にワイプアウト現象が発生したという証拠は認められなかった。近年のエビデンスでは、ワイプアウトの発生率は初期の後ろ向き研究で報告された数値よりもはるかに低い可能性が示唆されている。
Sakamotoら(2018)は、線維柱帯切除術 後の低眼圧黄斑症 において、脈絡膜 肥厚よりも過剰な強膜 収縮が主因であることを報告した4) 。この知見は低眼圧黄斑症 の病態理解と治療戦略に新たな視点をもたらした。
Shiratoら(2004)は、過剰濾過による低眼圧 に対して経結膜 的強膜 弁再縫合法を報告した5) 。結膜 を切開せずに強膜 弁を再縫合するこの術式は、低侵襲かつ有効な治療として注目されている。
Ehaら(2013)は、経結膜 的強膜 弁再縫合の長期成績を報告した6) 。この手技は術後低眼圧 の管理において有効な選択肢となりうる。
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