網膜所見
細動脈痙攣:約70%に認められる最多所見。血管径の不均一な狭細化として観察される。
軟性白斑:網膜虚血に伴う綿花状白斑。神経線維層梗塞を示す。
火炎状出血・硬性白斑:高血圧性変化として生じる。漏出した硬性白斑は黄斑部に星芒状配列をとることがある。
乳頭浮腫:頭蓋内圧亢進または高度高血圧による視神経乳頭の腫脹。

子癇前症(preeclampsia)は妊娠20週以降に発症する高血圧と蛋白尿または臓器障害を特徴とする妊娠合併症である。子癇(eclampsia)は子癇前症にけいれん発作が加わった病態を指す。妊娠高血圧疾患は全妊娠の約10%に合併し、周産期死亡・母体死亡の主要原因の一つである。
子癇前症に伴う眼合併症は多岐にわたる。高血圧による血管攣縮・内皮障害・凝固亢進が脈絡膜および網膜循環に障害を及ぼし、特徴的な眼底所見を呈する。視覚系への影響は30〜100%に及ぶとされ、眼科的評価は子癇前症の重症度把握においても重要な役割を担う。
HELLP症候群は子癇前症の重症型であり、溶血(Hemolysis)・肝酵素上昇(Elevated Liver enzymes)・血小板減少(Low Platelets)の三徴を呈する。HELLP症候群に伴う漿液性網膜剥離は約0.9%に生じるとされる。
視覚障害は子癇前症患者の30〜100%に生じるとされ、決して稀ではない。ただし大半は降圧・分娩後に数週間以内で消失する。重症例で網膜色素上皮壊死が生じると永続的な視力障害が残ることがある。詳細は「7. 最新の研究と今後の展望」も参照。
霧視(かすみ目)が最も頻度の高い症状である。
眼底所見は高血圧の程度と病態の重症度を反映する。
網膜所見
細動脈痙攣:約70%に認められる最多所見。血管径の不均一な狭細化として観察される。
軟性白斑:網膜虚血に伴う綿花状白斑。神経線維層梗塞を示す。
火炎状出血・硬性白斑:高血圧性変化として生じる。漏出した硬性白斑は黄斑部に星芒状配列をとることがある。
乳頭浮腫:頭蓋内圧亢進または高度高血圧による視神経乳頭の腫脹。
脈絡膜・網膜色素上皮所見
漿液性網膜剥離:脈絡膜毛細血管板の障害により網膜色素上皮下・網膜下に漿液が貯留。1〜2%に合併。
Elschnig斑:脈絡膜毛細血管板の小梗塞巣上の網膜色素上皮変性。黒色点を淡黄色の輪が囲む特徴的所見。
Siegrist線条:脈絡膜動脈に沿った線状の色素沈着。慢性の脈絡膜循環障害を示す。
網膜色素上皮モットリング:網膜色素上皮の斑状色素異常。脈絡膜虚血後の色素上皮変化。
漿液性RDは両眼性で inferior(下方)に生じることが多い。中心性漿液性脈絡網膜症(CSC)との鑑別が必要なため、「4. 診断と検査方法」の項を参照。
漿液性RD自体に痛みはない。ただし子癇前症に伴う頭痛・眼痛が同時に存在することがある。自覚症状は霧視や視野の暗点が主体である。
子癇前症の根本原因は胎盤における絨毛外栄養膜細胞(cytotrophoblast)の子宮螺旋動脈浸潤不全とされる。これにより胎盤から可溶性fms様チロシンキナーゼ1(sFlt-1)や可溶性エンドグリン(sEng)が過剰分泌され、全身の内皮機能不全を引き起こす。
内皮機能不全により一酸化窒素(NO)産生が低下し、血管収縮・凝固亢進・血管透過性亢進が生じる。眼局所では脈絡膜毛細血管板に特に障害が及びやすく、フィブリノイド壊死・毛細血管閉塞を経て漿液性RDに至る。
以下のリスク因子が知られている。
子癇前症に伴う網膜症の診断は眼底所見と臨床背景の組み合わせによる。妊娠中の高血圧・蛋白尿・臓器障害の存在が前提となる。
各検査法の特徴を以下に示す。
| 検査法 | 主な目的 |
|---|---|
| 眼底検査 | 細動脈痙攣・RD・乳頭浮腫の確認 |
| OCT | 網膜下液・フィブリン・網膜色素上皮変化の定量評価 |
| 蛍光眼底造影(FA) | 脈絡膜還流遅延・網膜色素上皮障害部位の同定 |
| 眼底自発蛍光(FAF) | 網膜色素上皮損傷パターンの評価 |
以下の疾患との鑑別が重要である。
| 鑑別疾患 | 鑑別ポイント |
|---|---|
| 中心性漿液性脈絡網膜症(CSC) | 妊娠中に増悪しうる。FA所見で鑑別 |
| Vogt-小柳-原田病(VKH) | 両眼性漿液性RD・ぶどう膜炎所見 |
| 播種性血管内凝固(DIC) | 血液検査異常・HELLP症候群合併 |
| 悪性高血圧性網膜症 | 急激な血圧上昇・乳頭浮腫・綿花状白斑 |
フルオレセインは胎盤を通過するため、妊娠中の蛍光眼底造影には慎重な判断が求められる。臨床的に必要性が高く、他の検査(OCT等)で代替できない場合にのみ施行を検討する。眼底自発蛍光(FAF)やOCTアンギオグラフィー(OCTA)は非侵襲的な代替手段として有用である。
子癇前症に伴う網膜症に対する眼科的な積極介入は原則不要である。網膜所見は原疾患(子癇前症・子癇)の管理に従属するため、産科的治療が優先される。
漿液性RDは分娩後に急速に改善することが多い。網膜レーザー光凝固や硝子体手術は原則適応外である。分娩後も遷延する例では、CSCや他疾患との鑑別を再検討する。
重症子癇前症・HELLP症候群では血圧の急激な変動や凝固障害が視機能に影響する。硝子体出血や虚血性視神経症を合併した場合は個別に対応する。
子癇前症の眼合併症発症機序は、胎盤由来の抗血管新生因子による全身内皮障害と、脈絡膜特有の高血流・低自動調節能の組み合わせで説明される。
脈絡膜毛細血管板は網膜外層の血流を支える高血流の血管床であり、自動調節能が乏しい。sFlt-1・sEngによる内皮障害に急激な全身性高血圧が加わると、毛細血管板に以下の変化が生じる。
脈絡膜毛細血管板の障害に続き、網膜色素上皮のポンプ機能が低下する。脈絡膜からの漏出液が網膜色素上皮下・網膜下に貯留し、漿液性RDが形成される。フィブリン析出を伴う例では回復が遷延することがある。
これら二因子の過剰が網膜・脈絡膜双方の内皮機能に障害をもたらし、特徴的な眼底所見を形成する。
網膜細動脈は内皮機能不全と交感神経活性の亢進により痙攣・狭小化する。慢性的な痙攣は血管壁の肥厚・硬化に発展する。重症例では網膜虚血→軟性白斑・網膜出血が生じる。
脈絡膜毛細血管板は網膜血管に比べ自動調節能が乏しく、急激な血圧上昇の影響を直接受けやすい。また血流量が多く内皮表面積が広いため、内皮機能不全の影響が顕在化しやすい。これが子癇前症でElschnig斑・漿液性RDなどの脈絡膜病変が網膜病変より目立つ理由と考えられる。
子癇前症の重症度評価における眼底所見の有用性が研究されている。細動脈痙攣の程度と血圧・蛋白尿の重症度との相関が示唆されており、網膜血管径の定量化による早期リスク層別化への応用が探索されている。
OCTAによる非侵襲的な脈絡膜毛細血管板の灌流評価が子癇前症の早期検出・モニタリングに有用である可能性が報告されている。蛍光造影を用いずに脈絡膜血流の変化を捉えられる点で妊娠中の検査として優れた安全性プロファイルを持つ。
重症子癇前症後の長期的な網膜色素上皮萎縮・視機能障害の頻度については今後の大規模研究が必要とされている。Elschnig斑が黄斑部に広範に分布した症例では永続的な視力低下が報告されており、産後の継続的な眼科フォローアップの体制整備が課題とされている。