この疾患の要点
頭低位安静(HDTBR)は宇宙飛行関連神経眼症候群(SANS)を研究するための地上実験モデルである。
6度の頭低位により頭側への体液シフトが生じ、視神経乳頭 浮腫・RNFL 肥厚・脈絡膜 襞などの眼球変化が観察される。
厳格なプロトコル(枕・腕支持禁止)での30日間HDTBRで、被験者の45%にFrisén grade 1〜2の視神経乳頭浮腫が確認されている。
眼球平坦化・綿花状白斑・遠視 化はHDTBRでは観察されず、宇宙飛行との相違点として重要である。
対抗策研究では下半身陰圧負荷(LBNP)が最も有望とされている。
近視 ・特定の遺伝的多型(MTRR 66G・SHMT1 1420C)・過去のHDTBR曝露歴がリスク因子として報告されている。
頭低位安静(Head-Down Tilt Bed Rest; HDTBR)は、宇宙飛行関連神経眼症候群(Spaceflight Associated Neuro-Ocular Syndrome; SANS)の病態生理を研究するための地上アナログモデルである。
SANSとは、宇宙飛行中の頭側体液シフトにより生じる症候群である。視神経乳頭浮腫・眼球平坦化・遠視化・脈絡膜充血が主な所見で、宇宙飛行士の約70%に何らかの所見がみられる。以前はVisual Impairment and Intracranial Pressure(VIIP)症候群と呼ばれていた1) 。
HDTBRは1990年以来、6度の頭低位を維持する安静臥床として国際的に確立された地上アナログである。パラボリックフライトは曝露時間が短くSANS様症状を誘発するには不十分であるため、持続的な体液シフトを再現できるHDTBRが重視されている1) 。
初期の70日間HDTBR研究ではSANS所見が誘発されなかった。その原因は枕の使用や前腕支持によって頭蓋内圧(ICP)が下がっていた可能性があると考えられた。その後、枕・腕支持を禁止した厳格なプロトコルの採用により、脈絡膜襞や視神経乳頭浮腫の誘発に成功した1) 。
短期ミッション(6か月未満)では宇宙飛行士の29%、長期ミッション(6か月以上)では60%に遠視化による視力 低下が報告されている1) 。
Q HDTBRはなぜ6度の角度に設定されているのか?
A 1990年以来、6度の頭低位が微小重力状態の国際標準アナログとして確立されている。この角度により、宇宙飛行に類似した頭側への体液シフトが持続的に誘発される。
頭痛 :研究初期段階で拍動性・圧迫性・両側性の頭痛が出現する。頭側体液シフトによるものと考えられる。
視機能への影響は軽微 :実験条件は参加者の視機能に大きな影響を与えない。重篤な視覚異常を経験した被験者はいない。
わずかな近視化 :持続的な近接視活動による一過性の近視が生じる場合がある。
認知変化(SANS発症者) :高炭酸ガス介入HDTBR研究では、SANS発症者が認知テストにおいて視覚的手がかりへの依存度の増加を示した1) 。
Q HDTBRで視力が低下することはあるのか?
A 視力検査・屈折 検査はいずれも正常範囲内にとどまる。アムスラーチャート・レッドドットテスト・対座視野・色覚検査でも有意な変化は観察されていない。重篤な視覚異常を経験した被験者の報告はない。
HDTBRで観察される眼球変化の主要所見を以下に示す。
RNFL肥厚 :14日間HDTBRで上方乳頭周囲網膜 厚が平均+4.69 μm、70日間HDTBRで平均+11.50 μm増加する1) 。
視神経乳頭浮腫 :厳格30日間HDTBRで被験者の45%にFrisén grade 1〜2の乳頭浮腫 が観察された1) 。30日間HDTBR被験者は宇宙飛行士より高度な視神経乳頭浮腫を呈する傾向がある。
乳頭周囲TRT増加 :厳格HDTBR被験者は宇宙飛行士より大きな乳頭周囲TRT増加を示す(平均差37 μm)1) 。
脈絡膜襞 :脈絡膜厚の増加がないにもかかわらず発生する場合がある。
脈絡膜厚変化 :短期3日間研究では統計的に有意な増加が認められる。60分HDTでは亜中心窩 脈絡膜厚の増加が確認されている1) 。一方、宇宙飛行士の方がHDTBR被験者より脈絡膜厚増加が大きい(平均差27 μm)1) 。
視神経鞘拡張 :60分HDTで軌道超音波により確認され、宇宙飛行士の飛行1か月後の所見と類似する1) 。
眼圧 上昇 :14日間で+1.42 mmHg、70日間で+1.79 mmHg上昇するが、いずれも正常範囲内である。
HDTBRでは観察されない所見として、眼球平坦化・遠視化・綿花状白斑が挙げられる1) 。視力・屈折・眼軸長 ・前房 深度・角膜 曲率も有意な変化を示さない。
以下の表にHDTBRとSANS(宇宙飛行)の主要所見の比較を示す。
所見 HDTBR SANS(宇宙飛行) 視神経乳頭浮腫 あり(重症度は高い傾向) あり 脈絡膜厚増加 軽度 大きい 眼球平坦化 なし あり 遠視化 なし あり 綿花状白斑 なし あり
HDTBRの基本メカニズムは、身体にかかる重力ベクトルの方向変更による頭側への体液シフトである。これが微小重力下と同様の体液分布変化を誘発する。
寄与因子として、篩状板 を介する圧力差・脈絡膜充血・脳内容積シフト・コラーゲン線維束の配向・静水圧的体液分布などが挙げられている。
主なリスク因子は以下の通りである。
HDTBR期間 :最大のリスク因子である。70日間HDTBRは14日間に比べて約2.5倍顕著な乳頭周囲網膜厚増加を示す。
近視 :中等度近視者は正視・軽度近視者より高いピーク眼圧(19.8 mmHg対18.6〜18.7 mmHg)と有意に大きな眼圧上昇を示す1) 。
遺伝的素因 :MTRR 66GおよびSHMT1 1420 Cアレル保有者で視神経乳頭浮腫の程度が大きいと報告されている1) 。ビタミンB群代謝に関与する遺伝子多型である。
視神経乳頭の解剖学的特徴 :小さな視神経乳頭陥凹 を伴う密集した視神経乳頭はリスク因子の可能性がある。
過去のHDTBR曝露歴 :複数回参加した被験者で前回比2倍以上のTRT増加が報告されており、繰り返し曝露がリスクを高める可能性がある。
Q 一度HDTBRを経験すると次回のリスクは高まるのか?
A 複数のHDTBR実験に参加した被験者で、前回比2倍以上のTRT増加が報告されている。繰り返し曝露がリスクを高める可能性が示唆されており、研究参加者の選定においても考慮が必要である。
HDTBRで観察される眼球変化の評価・モニタリングに用いられる主な検査法を以下に示す。
OCT (光干渉断層計) :RNFL肥厚・視神経乳頭浮腫・脈絡膜厚変化を定量的に評価できる。ブルッフ膜 の変化も観察可能である。ハイデルベルグ・スペクトラリス(OCT2)はより高いデジタル解像度を提供する。
OCTA (OCT血管造影) :2018年12月からISSに導入された非侵襲的な3次元血管造影法である。網膜・脈絡膜の血管変化を評価できる1) 。
MRI :視神経鞘拡張・視神経蛇行・硝子体 腔深度の変化を定量化できる。位相コントラストMRIにより内頸静脈・椎骨動脈・内頸動脈の血流量・断面積・血流速度の測定が可能である。
軌道超音波 :視神経鞘径の拡張を検出できる簡便な方法である1) 。
非侵襲的ICP測定(研究段階) :直接ICPを測定する腰椎穿刺は侵襲的で飛行中には不可能である。歪成分耳音響放射(DPOAE)の位相変化が非侵襲的ICP監視ツールの候補として研究されている1) 。眼前庭誘発筋電位(oVEMP)も頭低位角度と関連することから非侵襲的ICP監視ツールとして検討中である1) 。
遺伝子・血液検査 :ビタミンB群レベルおよびSNP(MTRR 66G, SHMT1 1420C)の測定がリスク因子評価に用いられる。
眼科的基本検査(視力・調節麻痺下屈折・眼底・アムスラーチャート・色覚等)はいずれも正常範囲内にとどまる。
HDTBRは実験モデルであり、通常の意味での「治療」ではない。以下に示すのはSANSに対する対抗策(countermeasures)の研究成果である。
LBNP
下半身陰圧負荷(LBNP) :非侵襲的装置により下半身に陰圧をかけ、体液を末梢へ引き戻す方法。
エビデンス :-20 mmHg LBNPにより視神経鞘径増加を抑制、3日間HDTBRでの脈絡膜拡張を40%減衰させた1) 。5時間HDTBRでのCSF量増加も抑制が示された1) 。
評価 :現時点で最も有望な対抗策と考えられている。
大腿カフ
静脈収縮大腿カフ(VTC) :ISS乗組員で心臓前負荷と頸静脈系拡張の減少が報告された。一回拍出量・内頸静脈断面積・眼圧を減少させる。
限界 :CSF分布やICPへの直接的な影響はない。15度HDT + 60 mmHg大腿カフ10分間では乳頭周囲脈絡膜厚・視神経鞘径に有意差なし1) 。
人工重力
遠心分離機による人工重力 :毎日30分間の遠心分離機曝露。
限界 :30分間の曝露では脈絡膜襞・視神経乳頭浮腫の抑制に不十分であった。曝露期間の限定・眼レベルでのGフォース不足・異なる基礎メカニズムの関与が原因として考えられている1) 。
NASAのiRATプロトコル(統合レジスタンス・有酸素トレーニング)を70日間非高炭酸ガスHDTBRで実施した研究では、網膜厚変化・視神経乳頭浮腫に関して運動群と対照群で有意差は認められなかった1) 。ただし運動群で眼圧僅かに高い(1 mmHg未満)という知見も得られている。短時間の中等度有酸素・レジスタンス・高強度インターバル運動は眼圧低下と関連することが示されている1) 。
Q 下半身陰圧負荷(LBNP)はなぜ有望な対抗策と考えられているのか?
A -20 mmHg LBNPにより、視神経鞘径増加の抑制・3日間HDTBRでの脈絡膜拡張40%減衰・CSF量増加の抑制が報告されている1) 。体液を末梢へ引き戻すことで頭側への体液シフトを直接抑制できる機序が、他の対抗策より優れていると考えられている。
SANSの病態生理については、現在3つの主要仮説が提唱されている1) 。
ICP上昇仮説
メカニズム :頭側体液シフト→静脈うっ血→ICP上昇→眼症状。
限界 :飛行後腰椎穿刺では正常上限〜軽度上昇(21〜28.5 cm H₂O)のみ。IIH 典型症状(頭痛・拍動性耳鳴)はない。乳頭浮腫が飛行後6か月持続するが、IIHでは圧低下で速やかに改善する。ICP上昇のみでは説明困難である。
CSF区画化仮説
メカニズム :微小重力下で視神経鞘内のCSF圧が一方向弁機構により局所的に上昇する。頭蓋くも膜下腔との圧平衡が不完全となる。
意義 :正常〜軽度上昇ICPでも乳頭浮腫が持続する理由を説明できる。
脳上方移動仮説
メカニズム :微小重力で脳がわずかに回転・上方移動し、視交叉 が上方に牽引され視神経鞘への圧迫が生じる。
根拠 :MRI上、飛行後の視神経長増加(0.80 ± 0.74 mm)が確認されている1) 。
HDTBRと宇宙飛行の間にはいくつかの重要な相違点がある。
脈絡膜拡張の程度 :HDTBRでは脈絡膜の拡張は宇宙飛行時ほど起こらない。垂直軸方向の重力(Gz)が依然存在し組織重量を生じるためである。
脈絡膜襞の発生機序 :HDTBRでは脈絡膜厚増加なしでも脈絡膜襞が発生する。脈絡膜肥厚が襞の必須条件ではない可能性を示唆する。
眼圧変化 :HDTBRでは眼圧低下がないため、眼圧低下とICP上昇の組み合わせによる脈絡網膜襞形成メカニズムは適用できない。
IIHとの対比 :乳頭浮腫を伴うIIH患者でSD-OCTによる脈絡膜襞が認められるのはわずか10%であり、ICP上昇のみでは脈絡膜襞を全例に誘発できない。
ICP上昇の程度 :HDTBR被験者は宇宙飛行士よりやや大きなICPを経験する可能性があり、視神経乳頭浮腫の重症度の違いに寄与する可能性がある。
Ongら(2021)の総説によれば、HDTBR中に全被験者で脳灌流が低下する。しかしSANS症状発症者は非発症者より高い灌流を維持していた1) 。
高炭酸ガス環境(約4 mmHg PCO₂)下でも脳血管反応性・高炭酸ガス換気応答に有意な変化は認められなかった1) 。
ISSでのOCTA導入(2018年12月) :宇宙飛行中の網膜血管系データをHDTBR結果と比較することで、体液シフトが網膜・脈絡膜循環に及ぼす影響の理解が深まると期待されている1) 。
非侵襲的ICP測定法の開発 :耳音響放射(OAE)の位相変化がISSでのICP監視候補として研究されており、HDTBRでのテストが進んでいる1) 。oVEMPも頭低位角度と関連することから非侵襲的ICP監視ツールとして有望視されている1) 。
民間宇宙旅行時代への対応 :SpaceX・Blue Originなどの民間宇宙企業の台頭により、短期HDTBRが一般市民の頭側体液シフト感受性スクリーニングに応用できる可能性がある1) 。
遺伝的スクリーニング :MTRR・SHMT1多型がリスク因子として同定されており、HDTBRが宇宙飛行士候補の遺伝的スクリーニングに利用可能かどうかの研究が進んでいる1) 。
未検証の対抗策 :食事療法・ビタミン補充・外用薬・内服薬など、多数の対抗策がいまだ未検証の状態にある1) 。
火星有人ミッションに向けた課題 :1〜3年に及ぶ火星ミッションに向け、SANSの病態解明・リスク因子同定・対抗策の開発が急務である1) 。
地上アナログとしてのHDTBRには以下の限界がある1) 。サンプルサイズの小ささ・被験者リクルートの困難・宇宙飛行士との体力差・プロトコルの非標準化・背面接触など宇宙飛行と一致しない条件の存在が挙げられる。
RNFL肥厚や脈絡膜襞など一部の変化は研究終了後数日間持続することがある。
重篤な視覚異常を経験した被験者の報告はない。
宇宙飛行では脈絡膜襞や後部眼球平坦化が飛行後数年間持続する場合がある1) 。
宇宙飛行では不可逆的な恒久的視力喪失は報告されていない(最長14か月ミッションまで)1) 。
HDTBR後に腰部・筋肉の萎縮が正常に回復するまで数か月を要したという報告もある。
Ong J, Lee AG, Moss HE. Head-Down Tilt Bed Rest Studies as a Terrestrial Analog for Spaceflight Associated Neuro-Ocular Syndrome. Front Neurol. 2021;12:648958.
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