網膜出血
広範な多層性出血:後極から周辺部に及ぶ網膜出血。
網膜分離:硝子体網膜牽引によって生じる網膜層間の解離。SBSに高度に特異的な所見とされる。7)

揺さぶられっ子症候群(Shaken Baby Syndrome; SBS)は、乳幼児を激しく揺さぶる行為によって生じる非偶発性頭部外傷である。現在は「虐待による頭部外傷(Abusive Head Trauma; AHT)」という広義の概念でも呼ばれる。
1971年にGuthkelchが頭蓋内出血と網膜出血を伴う乳幼児の傷害パターンを初めて記述し、揺さぶり行為との関連を提唱した。2) その後、Cafeyが「whiplash shaken baby syndrome」として概念を確立した。
発生率は10万人あたり20〜30人と推定される。5) 好発年齢は生後6か月以下の乳児であり、生後2〜4か月がピークとされる。男児にやや多く、主たる加害者は親・保護者・ベビーシッターである。死亡率は10〜30%に達し、6) 生存例でも神経学的後遺症を残すことが多い。
SBSの診断は長らく以下の3徴候の組み合わせに基づいていた。
網膜出血
広範な多層性出血:後極から周辺部に及ぶ網膜出血。
網膜分離:硝子体網膜牽引によって生じる網膜層間の解離。SBSに高度に特異的な所見とされる。7)
硬膜下血腫
架橋静脈の断裂:大脳表面と硬膜静脈洞をつなぐ架橋静脈が加速減速力で断裂する。3)
両側性・薄層性:衝撃吸収の乏しい乳児脳では両側性に広がることが多い。
脳症
意識障害・けいれん:脳実質への直接損傷または低酸素・虚血による二次損傷。1)
予後不良因子:入院時のGCS低値・画像上のびまん性脳浮腫は予後不良と関連する。
外表所見の欠如、広範な多層性網膜出血、PediBIRN臨床判断ルールによる複数指標の組み合わせが鑑別に用いられる。5) ただし単一の所見で確定診断することは困難であり、多職種チームによる総合評価が必要である。
乳幼児は症状を言語化できないため、保護者や養育者からの問診が重要となる。
主な臨床所見を以下に示す。
| 所見 | 頻度・特徴 |
|---|---|
| 網膜出血 | 約85%に認める7) |
| 外表所見なし | 約40%の症例で体表に外傷なし6) |
| 硬膜下血腫 | 画像で確認される頭蓋内損傷の主体3) |
網膜出血は偶発的頭部外傷・分娩時・血液疾患など他の原因でも生じる。ただし広範な多層性出血と網膜分離の組み合わせはSBSに特異性が高い。7) 鑑別には全身的・眼科的・血液学的な総合評価が必要である。
SBSの主たる損傷機序は反復する加速減速力(acceleration-deceleration force)である。乳児の頭部は体重に対して相対的に大きく、頸部支持筋が未発達であるため、激しい揺さぶりによって頭部が大きく前後に振られる。
この動作により以下の損傷が生じる。
Revival shaking(蘇生目的の揺さぶり)とは、意識を失った乳児を覚醒させようと揺さぶる行為である。2) 善意による行為であっても追加損傷を引き起こす可能性があり、社会的・法的評価において重要な概念となっている。
SBSの診断には眼科的評価・神経画像・骨格系評価・多職種連携が必要である。
眼科的評価の中心は散瞳下の眼底検査である。網膜出血の分布・層・広がりを詳細に記録する。眼底写真・蛍光眼底造影・光干渉断層計(OCT)が補助診断に有用である。
Pediatric Brain Injury Research Network(PediBIRN)が開発した虐待による頭部外傷のスクリーニングツールである。5)
以下の4因子から構成される。
| 因子 | 内容 |
|---|---|
| 皮膚損傷 | 耳・頸部・体幹の打撲・擦過傷 |
| けいれん | 救急受診時のけいれん発作 |
| 意識障害 | GCS<15またはBayley評価低下 |
| 頭蓋骨骨折なし | 骨折がないにもかかわらずSDH |
4因子すべてが陰性の場合、AHTの可能性は低いとされる。ただし確定的な除外ツールではなく、臨床的総合判断との組み合わせが必要である。5)
良性外脳水腫(Benign External Hydrocephalus; BEH)はくも膜下腔の拡大を伴う乳児頭囲拡大であり、SDHとの鑑別が問題となる。4) BEHでも架橋静脈の伸展によるSDHが生じ、AHTとのトライアド重複が批判の根拠となっている。4)
トライアド3徴のみによるAHT診断への批判はこうした鑑別疾患の存在を背景としている。眼科所見・骨格系評価・病歴の整合性などを総合して判断する必要がある。4)
PediBIRNルールは虐待による頭部外傷のスクリーニングを標準化するツールであり、5) 陰性であっても確定的な除外はできない。臨床的状況・病歴の整合性・多職種評価との組み合わせが不可欠である。
SBSの治療は急性期の全身管理と眼科的管理に分かれる。根本的な「治療」は虐待防止であり、医療的対応とともに社会的・法的対応が不可欠である。
急性期全身管理
頭蓋内圧管理:脳浮腫に対する浸透圧療法・過換気。重篤例では集中治療が必要。1)
けいれん管理:抗てんかん薬による発作抑制。1)
呼吸循環管理:無呼吸・循環不全への対応。初期蘇生が予後を左右する。
眼科的管理
医療機関はSBS/AHTが疑われる症例について児童相談所または警察への通報が法律で義務づけられている(児童虐待の防止等に関する法律第6条)。通報は確定診断を要せず、疑いの段階で行う。
揺さぶりによる繰り返しの加速減速力は眼球に前後方向の力を加える。乳児の硝子体は成人より液化が少なく網膜との接着が強固であるため、硝子体が網膜を牽引する力が大きい。3)
この牽引力は特に以下の損傷を生じる。
大脳表面の皮質静脈から矢状静脈洞に向かって走行する架橋静脈は、激しい頭部の前後運動で断裂する。3) 乳児では大脳皮質と硬膜間の相対的なスペースが成人より広く、架橋静脈の伸展距離が大きいため断裂しやすい。断裂した静脈からの出血が硬膜下腔に貯留してSDHを形成する。
Eriksson(2026)らは、トライアド3徴のみによるAHT診断の法医学的信頼性に批判的な見解を示している。4) その根拠は以下の通りである。
この論争は診断の標準化と科学的根拠に基づいた評価体制の構築を促すものであり、4) PediBIRNのような多因子評価ツールの開発につながっている。5)
PediBIRNは多施設共同研究によって開発されたが、前向き大規模検証が継続されている。5) 感度・特異度の正確な推定と国際的な適用可能性の確認が課題である。臨床判断ルールとして標準化されれば、救急外来でのスクリーニングの質が向上する可能性がある。
小児集中治療室や地域病院での眼底評価へのアクセスを向上させる手段として、遠隔眼底読影の研究が進んでいる。7)
Simon(2023)らは、画像所見が陰性でも網膜出血が検出される症例の存在を報告し、眼底評価の診断的独立性を強調した。7) テレメディシンを用いた広域眼底カメラによる撮影・遠隔読影システムは、眼科医が常駐しない施設での診断精度向上に寄与する可能性がある。
Revival shaking(意識消失した乳児を覚醒させるための揺さぶり)が追加損傷を引き起こすか否かは、法医学的・医学的に重要な未解決問題である。2)
Greenwald(2024)はrevival shakingの概念を提唱し、最初の虐待による意識消失後に善意で行われた揺さぶりが重篤な二次損傷を生じうると報告した。2) この知見は事件の法的評価における加害者の意図の解釈に影響する可能性がある。
トライアドの科学的妥当性をめぐる国際的論争は現在も継続している。4) スウェーデンをはじめいくつかの国では、トライアドのみによるAHT診断を法廷証拠として採用することへの慎重論が高まっている。今後の研究では多因子評価モデルのエビデンスの蓄積と診断基準の国際的コンセンサスの形成が求められる。4)
トライアド3徴だけで虐待を確定できるかどうかについて医学的・法医学的な議論が続いている。4) 良性外脳水腫など鑑別疾患の存在や実験的証拠の限界が批判の根拠であり、多因子評価ツールの開発と国際的な診断基準の統一が課題である。
死亡率は10〜30%であり、6) 生存例でも神経学的後遺症(運動障害・認知障害・てんかん・視覚障害)を残すことが多い。Barthelemy(2024)が報告した8か月児の症例のように、受傷時のGCS低値・びまん性脳浮腫は特に予後不良因子である。1)